「シャーペンとペンダント」サンプル

  • 2007-11-18

主題

「誰も来ないね」
「……ね」
 がらんとした美術室で、佐々木十和子と今野和良は向かい合ってそれぞれのスケッチブックを開いていた。二人と同じ一年生の渡辺真衣は用事で休む、と言っていたが、上級生が一人も来ないのだ。
 授業が終わってもうそろそろ一時間になる。この時間になって来なければもう誰も来ないと見て間違いない。ここはそういう部だ。
「佐々木さん、何描いてるの?」
「ん、静物の下絵」
「どっか出すんだ?」
「一応ね。時々出すようにしないとスケッチだけで止めちゃうから」
 そういっているが、十和子の前には携帯が置かれているだけだ。いくつもの模型を並べ直すのが面倒なので、見ずに描いているのだ。十和子はスケッチブックに目を落としたまま、尋ねた。
「今野君は?」
「今は特に何も。夏休みにちょっと遠出するつもりだから、その時かな」
「遠出?」
「京都奈良。後は都内の寺社巡りもするつもり」
 十和子は思わず顔を上げた。今野は手を止めずに続けた。
「最近仏像とかお稲荷さんに興味があってさ。いくつか見て、実際に作ってみようと思って」
「仏像作るの?」
 十和子は思わず聞き返した。その声に今野も顔を上げて、笑った。
「全身にするかどうかわかんないけどね。仏像は難しいから」
「全身じゃないって……ああ、胸像とか?」
「とか、首から上だけとかね。どうするかはいくつか案を描いてみて決めるつもり」
 今野はそういって、また手を動かし始めた。十和子はその様子を見て、自分の描きかけの下絵を見た。
「いいね、描きたいものが決まってると」
「そう?それしか描かなくなっちゃうから、むしろいろんなものを描いてく方が実力をつける意味でもいいんじゃない?」
「そうかもしれないけど……やっぱり自分のテーマがあるのはいいよ。他人が見たときもわかりやすいし」
 十和子はスケッチブックを繰った。部活のある日は大抵何か一枚は描いているので、線が乱雑なラフも含めれば結構な数がある。そのほとんどは、美術室にあるモチーフ用の果物の模型や石膏像だ。
――授業で描かされたみたい。
 それを見ていくうちに、ふと、今野が持っているテーマの由来を知りたくなった。自分のテーマを見つけるヒントになるかもしれない。
「どうして仏像なの?」
「んー、改めて聞かれると説明するのは難しいけど……そうだね、やっぱりきれいだから、かな」
「きれい?」
 今野は頷いて、どう話すか少し考えてから口を開いた。
「元々仏様って形がないじゃない。一応お釈迦様は実在してたけど仏典をそのまま信じると人間の姿じゃないし、なんとか如来とかなんとか菩薩って文章で説明があるだけでさ。だから、一応昔に作られた仏像っていうヒントはあるけど全部想像の形じゃない。だから顔つきとか体つきから表情まで全部違っててさ。中にすっごくきれいな線を描いてるのがあるんだ。全部じゃないけどね」
 十和子は黙って頷いた。そもそも仏像や神社仏閣に興味を持ったことがないので、確かにちょっとずつ違うな、というレベルでしか理解できないのだ。
 今野は嬉しそうに話を続けた。
「夏休みに行こうと思ってるのも、そういう繊細なラインの仏像を探しに行って、できればスケッチしようかなって思ってるんだ。さすがに作るのはこっちじゃないと無理だけどね」
「……今野君、そっちの方に進むの?なんて言うんだっけ、仏像専門の彫刻家」
 十和子が尋ねると、今野はあっさりと首を横に振った。
「ううん、別にそれだけを作りたい訳じゃないし、仏教徒でもないし。今そういうのに特に興味があるってだけだからね」
「そうなんだ。でもすごいな、そこまで本気になれるものってあたしにはないなぁ」
 十和子は描きかけのスケッチブックを閉じて、机に頬杖をついた。
 十和子にとって絵を描くことは趣味でしかない。だから、というのではないが、そこまで思い切り打ち込めないのだ。明確なテーマを持って創作に取り組んでいる今野といろいろな材料を自分なりの見方で次々に描いていく真衣とはタイプもアプローチも違うが、同い年の二人がそれぞれのやり方で、本気で取り組んでいるのを見ると、自分だけがダメな気がしてしまう。
「ならいろいろ描いてみたら?ここのモチーフだけじゃなくて、風景とか人物とか建物とか。そのうち何か見つかるかもしれないよ」
 今野の言葉に、十和子は頷くしかない。それは一番明快で、たぶん正しいやり方だ。でも、そのとおりに無節操に描きまくったとしても、きっと「絵を描いていること」以外の楽しさや喜びは得られないような予感がした。
 顔には出さなかったそんな思いを知ってか知らずか、今野は続けた。
「それにさ、渡辺さんもそんな感じだけど、対象が何でも描いてて楽しいんなら、それは絵を描くのが純粋に好きってことじゃない?それはそれですごいことだと思うよ。俺みたいに静物は好きじゃないとか抽象画は描かないとか、好き嫌いが激しいよりずっと素敵なことだよ」
 十和子は思わず今野の顔をじっと見つめた。
 目からウロコが落ちた思いだった。自分は絵を描くのが好きだったから真衣の誘いに応じて美術部に入ったのだし、今日のように周り中が来なかったり遊んだりしているのに付き合いながら、必ず何かしら描いてきたのだ。
 十和子は不意におかしくなった。今野は、突然くすくすと笑い出した十和子にぎょっとして、思わずスケッチブックを置いた。
「……佐々木さん、どうかした?」
「あ、ごめん。大丈夫だから」
 ひとしきり笑うと、さっきの暗い気持ちはどこかに消えてしまっていた。
「ありがとう。おかげで何かすっきりしたわ」
「え、あ、うん。……よくわかんないけど」
「いーのいーの」
 不思議そうな顔の今野に笑いかけてから、十和子は一旦閉じたスケッチブックをもう一度開いた。

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