「まなざし」サンプル

  • 2007-08-26

個人教授

 佐野加恵の通学路は、彼女が世界でもっとも通り慣れた道である。小学校の頃の通学路と大半が共通だからなのだが、そのせいで彼女はこの道があまり好きではなかった。平たく言えば飽きていた。特に一日に二回も通らされる日は、変化といえば野良猫の昼寝ポイントぐらいしかないこの道を嫌いと断言できる。
 例えば、宿題のプリントを机の中に置き忘れた今日のような日には。
――全くツイてないわ。月曜日には出さなきゃいけないのに。
 というわけで、加恵は本日二度目の往路をぶつくさ言いながら歩いていた。時間が変わっても、やはり何が変わるということもない。飼い犬の毛の色も路駐の車の位置も朝と同じ。遅刻するという緊迫感すらない。退屈な登校だ。
 まだ四時半前。部活はやっている時間なので、校門は開いている。時間が時間なので、朝と違って辺りには人気がなかった。部活に入っていない加恵にとっては珍しい、無人の昇降口に入った。
 下駄箱にはまだ半分くらい靴が残っていた。自分の上履きを取って、履き替える。加恵の真上も靴が入っていた。同じクラスの佐々木十和子だ。
――そういえば、もうじき完成だって言ってたっけ。
 自称「美術部内で二番目にまじめ」な彼女は、特にイベントがなくてもコンスタントに描いているらしい。完成品はあまり見せてくれないが、時々進み具合や苦心していることを聞かされる。特に美術が得意でも苦手でもない加恵には、わかることとわからないこととが半々ぐらい。その十和子がいる美術室を通り過ぎて、自分の教室へ。とりあえず宿題のプリント最優先だ。
 教室のドアは開いていた。
――誰かいるのかな。
 思いながら、一番奥の自分の机に向かう。大事なプリントを無事回収して、教室の後ろに目をやった。明るい茶髪の男子が、教室の後ろの方にうずくまって何やらごそごそやっている。
「……中津君?何やってるの?」
 名前を呼ばれて、ようやく中津が顔を上げた。
「ああ、佐野さんか。いや、ちょっとコンタクト落としちゃってさ」
「……もしかしてハード?」
「ソフト。さすがに踏んづけたらヤバいけど」
 そう言って、再びうずくまった。中津は見た目には明るい茶髪にシルバーアクセサリの軽い男だが、中身は理系の秀才である。今手にしたばかりの数学の宿題を手伝ってくれるかもしれない。幸い加恵の方はこれから何の用事もない。そこまで考えて、加恵はコンタクト探しに付き合うことにした。
「手伝うよ」
「あ、悪いな」
 やはり片目ではうまく見えないのか、素直に礼を言った。胸元でペンダントがちり、と鳴った。
「その代わり、今日の数Ⅰ……」
「教えるだけな。カンニングはダメ」
「ま、いいや。よろしくね」
 意外にまじめなんだな、と思いながら、加恵も四つん這いになった。裸眼で両側一.五の目で精一杯床をにらみ、慎重に移動する。二人で机の間を這い回ること五分。
「あった!」
 声を上げたのは加恵だった。中津が四つん這いのまま、ごそごそと近づいてきた。
「ここ、ここ」
 迂闊に触っては、と思い、コンタクト自体には触れずに落ちている場所を指さした。やはりよく見えないらしく、加恵の指している辺りに手を伸ばした。その辺りの床を慎重になでていくうち、手に感触があったようだ。
「あ、これだ。サンキュ!」
「あ、うん……」
「俺、ちょっとこれ洗ってくるから、プリント用意しといて」
 そう言い置いて、指に載せたコンタクトがまた落ちないように注意しながら、教室を出て行った。加恵は、コンタクトを探っていた時にかすかに触れた手や肩の感触に訳もなくどきどきしながら、中津の背を見送った。

 気がつけば、結構薄暗くなってきた。初夏の匂いが感じられるとはいえ、特に室内では暗く感じるのも意外と早い。電気を点けて、ついさっきまで机に入っていたプリントを出してみた。問一を軽く読んでみる。
――……ダメだ……。
 公式を使えばいい、というところまではわかるのだが、ぱっと見て解けるのは最初の二問くらいしかない。数学は苦手なのだ。
 後ろのドアが音を立てたので、顔を上げた。コンタクトを洗ってきた中津は、手ぶらで自分の席に座った。
「おいで」
「へ?」
「プリントやるんだろ?隣来なよ」
 当然、と言わんばかりである。加恵はどちらかというと中津が平然としているのが釈然としなかったが、おとなしく隣に座った。見れば、中津の机にもプリントが載っている。
「あ、なんだ。中津君もこれやってたんだ」
「うん。でなきゃさっさと帰ってるって」
 加恵ならわざわざ学校で宿題をやったりしないが、中津はそうでもないらしい。少し気になったが、とりあえずプリントに取りかかることにした。中津が先に終えて帰ってしまったら、自力では解けない。
 一問目はあっさりできた。二問目も一応できた。三問目で早くも手が止まる。この式に当てはまる公式があったような気がするが、どこにしまわれたのか一向に出てこない。
「……そっからか」
 ぼそっと言った。加恵は恥ずかしいのとムッとしたのとで、少し顔を赤らめて中津をにらんだ。
「怒るなって。足し算の二乗だろ?(x+y)2=(x+y)(x+y) だから、これを展開してくだけだ」
「あ……そっか」
 すぐに展開しようとしてまた一瞬手が止まったが、今度はちゃんと展開できた。次の問題に目をやって、また止まる。これは何かがあったような記憶もない。
「……それも公式一発だなぁ。教えるも何も……」
 中津は自分のプリントに置いていた手をどけた。のぞいてもいい、ということなのだろう。加恵は手早く答えを写していった。書き終わったのを見て、中津はまた腕を戻した。
「あっ」
 つい不満の声が漏れる。
「カンニングはダメだっつったろ?それで公式は一通り書き出せたんだから、あとは自力で考えてみろよ。わかんなかったらヒントやるから」
 中津は諭すように言った。まるで先生に補修を見られてるみたいだ。そう思いながら、加恵は改めて問いに向き合った。
 初めのうちは、ほとんど全問で中津の助けを借りていたが、解いていく内に公式の使い方がわかってきたような気がしてきた。こうかな、と思ってやってみると、きれいに答えが出てくる。
「そうそう。なんだ、できるじゃん」
 中津も時々加恵の手元をのぞき込んで、正解かどうかを確かめるぐらいになった。
 ほめられれば悪い気はしない。障害物競走のような勢いで解いていったが、最後の一問で、またぴたりと手が止まった。最初に答えさせられた公式のどの形にも当てはまらない。せっかくできると思わせているのに訊くのもしゃくで、いろいろと試してはみたが、やはりすっきりした答えが出てこない。問いの周りが計算式で真っ黒になって、ついに諦めた。
「中津くーん」
「ん?」
 寝ていたところを起こされたような中津の声は、思っていたのと違うところから聞こえた。ぱっと声をした方を振り返ると、読んでいた文庫本を閉じた中津がすぐ目の前に立っていた。思わずびくっとした加恵を、中津は不思議そうな顔で見た。
「どした?」
「い、いつの間に移動したのよ。さっきまでこっちにいたじゃん!」
「……トイレ行くって言ったし、佐野さん返事してたよ?」
 中津は呆れ顔でそう言った。加恵が疑わしげな視線を向けると、それを見て微笑んだ。
「それだけ集中してたんだ。すごいすごい」
 からかっているのでも皮肉でもなく、ただほめている口調に、加恵はどう反応していいのかわからず曖昧な声を出した。それを気に留めず、中津はプリントをのぞき込んだ。
「あー、だいぶ考えたな。いいところまでいってるんだけどなぁ」
「でしょ?でも全部ダメなのよ、それだと」
「ふむ、これとこれと、これか。……本当にそうかな?」
 中津はにやりと笑った。加恵はその顔を見ていぶかしげに聞き返した。
「どういう意味?」
「こん中に正解があるってこと。計算ミスってる」
「うそ!?」
 慌てて自分の計算結果を見直した。どれ、と訊いても応えてくれないような気がして、自信があった式から検算してみる。まずは一つ目。
「……うわホントだ。バカみたい」
「できた?」
「できた。これでどう?」
「……正解。やればできるじゃん。俺いらなかったな」
 中津はそう言うと、加恵は首を横に振った。
「そんなことないよ。中津君がいなかったらまず問一とか問二とかできてないし。手伝ってくれてありがと」
「い、いや。気にすんなよ」
 いきなり正面から礼を言われて驚いたのか、中津は少し口ごもった。それがおかしくて、二人で少し笑った。

「中津君さ、いつも学校で宿題やってるの?」
「うん。家帰るとやる気なくなるからさ。特に金曜は学校でやる」
 加恵はペンを置いて、後ろの机に肘をついている。中津はそばの机に座って、そんな加恵を見下ろしていた。
「そうなんだ。そういえば帰るときに外で見たこと、ほとんどない」
 加恵は、帰りが少々遅れたときでもほとんど中津を見たことがないのに気付いた。帰宅部なら大抵一度ならず目にしている。そう言うと、中津も頷いた。
「ほとんど誰かと一緒に帰ることないからな」
「……寂しくない?」
「別に。帰れば弟と妹の相手しなきゃいけねーから、むしろ静かでいいよ」
 強がりではないのはすぐわかった。弟妹の面倒を見るのは当たり前、という顔をしている。
「いくつなの?」
「弟が小四、妹は幼稚園の年長」
「へー。それじゃ相手するのも大変かもね」
「まぁな。お互い年が離れててあんまり喧嘩にはならないからいいけど」
 優しい顔をしている、と加恵は思った。数学を教えてくれたときも、こうして弟や妹の話をしているときも。
「家事もやったりとかしてる?」
「いや、母親がいるし、それはさすがに。……佐野さん、うちに親いないって思ってない?」
「そ、そんなことないよぉ。うち、共働きだからさ。掃除だの洗濯だの食事の支度だのって昔からやらされてたから」
 そういうと、中津は意外そうな顔をした。
「へえ、じゃあ佐野さんは料理できるんだ」
「……うーん……兄弟いないと自分が食べられればいいからねー……」
 察してちょうだい、というと、中津は笑った。
 加恵の視界の端に、窓の外が見える。教室の電気がついているので気付かなかったが、いつの間にか空は茜色に染まっていた。視線を戻すと、中津がそれってどんなのだか見てみたいなぁ、などと笑いながら言う。
 中津の普段見られない表情をもっと見たくなって、加恵は夕焼けなんて見なかったことにした。

「なんか遅くなっちゃったね。ごめんね」
「いいよ、楽しかったし」
 十六夜の月が窓に見えて、二人は慌てて帰り支度を始めた。教室の時計はもうすぐで縦一本になりそうである。完全に埋まったプリントをしまって、加恵は少し遠慮がちに言った。
「あの、さ。また宿題教えてもらっていい?中津君教えるのうまいし」
「ああ、いつでもいいよ。ただし」
「ただし?」
「カンニングはなしだ」
 中津はにやっと笑った。でも、その笑顔はどこか嬉しそうだった。
「わーかってる」
 答える加恵も、素直に笑顔を返した。

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